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第4回 「ブラタモリ」に登場した羽田の漁師町を歩く②――どうして七曲がりができたのか?

岡本哲志岡本哲志

2018/09/26

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中世的空間と近世的空間の違い


“くの字”に曲がった先の路地を行く

NHKの番組「ブラタモリ 羽田」の事前ロケハンで番組のディレクターと羽田の町に同行した私は「中世の羽田の湊はどこなのか」を探るべく、困り果てた担当ディレクターと2人で路地に潜り込んだ。

これまで町を歩いてほかの湊町を見てきた経験から、鎌倉時代の湊と江戸時代の湊では、位置が違っていると私は考えていた。

放送された番組では、当時(2011年1月)の久保田祐佳アナウンサーが「私、猫になったみたい」と連発した“くの字”に曲がった路地を通り抜け、七曲がりの道に出る。別世界に出たかのように、路地と道が直角に接続していた。気にすることではないと思われがちなことが重要。当然、路地が “くの字”に曲がったことで、方角は修正されたのだが、やはり別の時代の空間にタイムスリップした思いがする。


鴎稲荷神社の“くの字”に曲がった参道

路地を抜けて七曲がりの道に出た近く、北東側左手に鴎(かもめ)稲荷神社がある。これは冗談めいた話になってしまうが、鳥居を潜り本殿に向かう参道が先ほど抜けてきた路地と同じように“くの字”に曲がる。


繁栄を偲ばせる古い商家

ここは撮影ロケではタモリさんが大いに盛り上がった場所の一つ。それは羽田漁師町の成り立ちを参道が見事に表現していたからだ。すなわち、羽田の漁師町は鴎稲荷神社を境に町を構成する空間の仕組みが東と西で異なる。西側の町(現大田区羽田三丁目)には、多摩川と平行に通る「羽田道」と呼ばれるメインの道があり、かつての繁栄を偲ばせる古い商家が残る。


わずかに残る商店

通りから多摩川に向かい直角に路地が直接抜け、川の反対側にも延びる。ただし、羽田道は江戸時代が起源である。江戸が巨大都市となり、江戸庶民の胃袋を満たすために、魚介類を江戸に運ぶ道として、「羽田道」と町割りが新しく整備された。典型的な港町・漁師町の近世的空間の構成である。

一方、鴎稲荷神社より東側はどうか。羽田を歩いた第一印象として、地元の人たちが「七曲がり」と呼ぶ道が漁師町を抜けるメインの道のように思えた。羽田道から本当に7回曲がり、羽田空港に抜ける弁天橋が架かる通りの前にでる。七曲がりだけが少し道幅が広く、一度も歩いたことのない人も迷うことがない。昭和30年代まで、この道沿いには商店が軒を並べ、多くの人が行き来していたと聞く。今は数軒の店が商いをしているだけで、店がなくなった通りからは賑わうイメージが浮かばない。


七曲がりの角地に建つ立派な住宅

ただ、「七曲がり」する曲がり角には、先に見た鴎稲荷神社のほか、井戸を敷地内に持つ立派な屋敷、あるいは風呂屋が占める。とはいえ、どうして「七曲がりは七つ曲がっている」のかはまだわからない。

漁師町の原風景から見えてきたこと


細かく通された路地の一つ

弁天橋に向かう道沿いに、白魚稲荷神社がある。「ブラタモリ」の収録の際、ディレクターが大きめのビーチボールをこの辺りで路上に置いてみた。思うように転がってくれず、放送では残念ながら使えなかった。ただ、明らかに北側に向かって土地が低くなっていることを目で確認できる。江戸時代に描かれた絵地図、近年の地質調査からも、弁天橋に通じる道以北がかつて海であったと確認できる。

木造船は船体に船虫が着かないように、海水から引き離しておきたい。そのため、中世は砂浜を湊にすることが最適で、潮の満ち引きを利用して船を海水から上げた。砂浜に上げられた船は引き潮の時海に進水させた。自然の力を利用した漁のリズムがあった。そのような砂浜が羽田猟師町の北側にあり、かつて湊として機能していたという考えを強くする。羽田漁師町全体の道や路地のあり方に意味を持ちはじめる。

北にある湊に向かって道が通され、海岸から少し離れたその道の両側に魚の骨のように路地がつくられ、家が路地を囲む。

魚の骨、あるいはぶどうのふさに実がなるようにコミュニティの単位を形成しているようだ。ここまでは、現地を幾度か歩き、空間の仕組みを読み解いた推理である。

そこでディレクターに次回街歩きまでの宿題を出す。「魚の骨のように路地がつくりだす空間は漁をする単位となっていたのではないか?」との問いを出した。現地でヒアリング重ねていたディレクターから、「その通りでした!」とメールが入る。かつては、南北に延びる道は、それぞれ海老を捕る集団、貝を捕る集団などに分かれており、その両側の魚の骨のような路地で構成される空間が船を操る共同体の単位となっていたという。しかも、この仕組みが今でも町会の下部組織の組として存続しており、路地がその単位をまとめる要となっている。

そのメールから、最も知りたかった「七曲がりはどうして七つ曲がっているのか」という問いが解決された。江戸の繁栄で、大量の魚貝類を江戸に運ぶために、「七曲がり」は中世に袋小路だった道を羽田道からの延長として、袋小路の末端を結んでいった結果「七曲がり」の道になってしまったという考えだ。

さて、魚の骨、あるいはぶどうのふさと幹のような関係の空間的仕組みは、羽田だけにあらわれた特異な空間形態ではない。独特の空間構造に見えるが、真鶴も閉ざされたコミュニティ単位と、それらを束ねる道が湊に向かう空間の仕組みは、類似している。次回はその真鶴を訪れることにしたい。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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